日野市の石田  石田寺には大きく育っている「カヤの木」があります。

樹齢300年から400年 高さ25m 土方歳三も登ったことがあるかも知れません。

秋になり、石田寺の雌木で沢山のカヤの実が育っています。

拙宅でもカヤの木 樹齢7年のカヤを植えています。

新芽も出てどんどん育っています!!

現在大小とりまぜ13本生育中、 雄木か雌木かは判りません。

とうとう木の高さも2.0mをこえました!!

☆ 最近切り芽で植えたカヤに実がなっています。 最低10年は実がならないと思っていたところ
実がなっているのに驚きました。

新芽が出てきました!!。 ぐんぐん育っています♪


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2015.12.22 殉拙両雄の碑

「殉節両雄の碑」高幡不動尊

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期 政 佐 即 平 義 □ 豊 乃 軍 會 於 以 惜 部 交 □ 其 敵 七 火 隊 籍 帰 気 宜 摩 幕
首 撰 藤 處 太 豊 朝 進 謀 傅 者 是 反 其 百 注 勅 功 自 月 禁 昌 口 焉 相 土 之 府
明 丘 ニ 俊 寛 郎 興 議 向 相 城 三 義 名 材 余 東 入 特 山 長 闕 宜 勤 与 投 方 水 新
治 而 子 正 典 以 古 咎 松 興 城 千 豊 天 欲 人 兵 覲 命 上 門 ニ 為 王 他 親 義 發 選
九 一 傳 糟 吾 下 屋 其 前 戮 兵 人 与 兵 説 而 遂 先 昌 連 老 人 之 暴 応 如 豊 源 隊
年 往 叙 谷 何 千 大 書 次 力 出 十 榎 電 而 発 敗 遣 宜 砲 臣 偵 長 行 徴 兄 實 武 士
歳 不 述 良 面 余 川 詞 尻 奪 戰 九 本 激 降 六 慶 行 為 扞 福 知 義 恣 者 弟 産 甲 近
次 復 其 循 目 人 等 不 内 函 死 日 武 来 之 日 喜 人 両 之 原 之 豊 議 無 皆 於 之 藤
丙 回 顛 土 復 出 屡 敬 村 館 傷 黎 揚 討 諭 遇 自 瀧 番 會 越 逮 副 以 慮 学 其 境 昌
子 况 末 方 見 降 破 下 是 以 互 明 等 是 以 因 大 川 次 會 後 捕 之 排 ニ 剣 両 東 宜
春 若 如 義 昌 軍 官 夜 據 多 与 議 臣 順 土 坂 某 班 藩 国 以 而 斥 百 法 涯 流 土
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□ □ 士 文 住 君 三 官 等 吾 嶋 日 国 勅 己 首 昌 在 明 等 泉 曰 郎 請 豊 之 諄 亦 □
□ □ 之 余 職 之 十 軍 囑 稜 圭 至 府 使 而 京 宜 大 治 三 屯 事 者 為 曰 新 四 大 □
内 □ 激 喜 賢 冤 五 潰 英 郭 介 若 台 入 応 師 義 坂 元 将 天 君 潜 幕 吾 徴 子 矣 □
藤 □ 昴 其 雅 也 十 此 佛 抜 等 松 其 江 戦 昌 豊 義 年 僅 王 竭 居 議 察 隊 也 哉 □
慶 □ 負 志 追 今 八 戦 ニ 而 亦 城 夜 城 死 宜 為 豊 正 以 山 力 四 可 今 昌 ニ 而 □
雲 □ 氣 據 念 如 日 也 舩 據 率 八 徳 慶 見 之 甲 独 月 身 昌 臣 條 之 之 宣 人 奇 □
刻 □ 節 郡 ニ 此 榎 自 上 之 兵 月 川 喜 讒 遭 斐 奮 三 脱 宣 之 小 更 諸 義 天 男 □
□ □ 者 人 子 唯 本 晨 書 廿 来 廿 脱 避 人 囚 鎮 力 日 幕 義 職 橋 称 浪 豊 生 子 □
□ □ 定 小 忠 有 武 至 於 八 會 三 籍 之 罔 也 撫 戦 慶 府 豊 也 西 曰 士 踊 忠 近 □
□ □ 方 嶋 烈 死 揚 明 □ 日 義 日 士 水 極 人 率 銃 喜 大 進 不 陰 新 大 躍 勇 藤 □

■「殉節両雄の碑」参考訳文はこちらです。

高幡不動尊提供、 銅像と殉節両雄の碑
殉節(じゅんせつ)とは正義ために命をすてること

両雄とは近藤勇と土方歳三のこと


土方歳三が私がさきごろ昌宜(勇)と死を共にしなかったもっぱら慶喜公の冤の罪を

雪ぐ日のある事を期していたからである。今この様な状況になってしまった以上、

いさぎよく戦死するだけである。

碑文中に七文字誤字と思われるがそのまま記載してあります。

参考:高幡不動尊資料、日野の古文書を読む会研究部会明治7年、明治政府は戊辰戦争で朝敵となった戦死者の霊を親族や友人が祭る事を一切咎めないとする布告を出した。多摩地域でも佐藤俊正や小島為政、本田定年、糟谷良循らにより近藤勇・土方歳三の顕彰碑の建立が計画された。

高幡不動尊境内が選ばれ、碑文は小島為政の記した「両雄士伝」をもとに、旧仙台藩の儒者で大槻磐渓の撰文で1600文字の漢文にまとめられた。篆額は当初、徳川慶喜に松本順が小栗尚三を通じ依頼したが文章を読んで落涙し、回答がないまま松平容保に依頼された。

碑文そのももは明治9年に完成していたものの「殉節両雄之碑」は明治15年6月、神奈川県令沖守固から建立の許可が下りた。明治21年、高幡山金剛寺の不動堂北側に落成した。しかしこの場所はわかりずらく地元住民でも知らない方も多く、平成7年に建立された土方歳三像の隣に移設されたのは平成14年9月であった。

土方歳三・近藤勇の両雄をたたえる「殉節両雄之碑」は土方歳三の像と並び凛として二人の思いを語りかけています。
















2015.12.21 石田道
土方歳三も遊んだ「浅川」の流れ

http://youtu.be/P5WeD8hkryw

幕末維新の風・石田道  日野在住作家 佐藤文明さんの記録です。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bumsat/B-hp.Tama.htm#石田道


 国立に石田道と呼ばれる古道がある。甲州街道沿いの村・青柳の北に位置する小さな集落・石田から、真っ直ぐ多摩川に向かって南下する道である。この道はかつて、そのまま多摩川を渡り、日野の石田村に通じていた。多摩川には、水の少ない冬場に限り、板切れをつないだ木橋が懸かったのである。国立の石田は日野の分かれであり、水没した石田村の避難先である。つまり、両石田の土方家は一族縁者であり、冬枯れの河原に人の通いは少なくなかった。
 石田村の風雲児・土方歳三(新撰組副長)もその一人で、この橋をおおいに利用したはずである。というのも、年始の挨拶といった親戚づきあいだけではなく、幼少のころからすぐ上の兄・大作とともに谷保村の本田家に書の手習いに通った可能性が高いからだ。歳三のしなやかだが、背すじがスッと通ったような品のある書体は、本田家に伝わる米庵流のものである。
 ものの本によれば、歳三が残した「豊玉発句集」と、その書体は、姉の嫁ぎ先である日野宿名主・佐藤彦五郎の伝授によるものだろう、とする。たしかに彦五郎は当時、多摩を代表する俳人の一人であり、米庵流の筆を能くした。歳三に伝授したのは天然理心流の剣術ばかりではなかったろう。素朴で、てらいのない歳三の発句は、彦五郎の教授法にかなうものであったとおもうのである。
 しかし、彦五郎の筆も本田家直伝のもの。当然、歳三にも直伝を奨めたはずである。このことは、佐藤家とはあまり出入りのなかった大作が、後に米庵流の能筆家として名を挙げたことでも明らかだ。が、私はここで文芸の伝授・継承関係を解きほぐそうとする気はない。それよりもむしろ、幕末維新のある時代に、石田、谷保、日野の一帯に、文芸の気風が立ちこめていたことを伝えたい。
 始まりがいつであるのか明らかではない。が、それは少なくとも彦五郎や歳三よりも三代前にさかのぼる。谷保の本田家が医業を開業し、米庵流を始め、日野の佐藤家が天然理心流への援助を開始した。おなじころ、石田に三月亭石巴なる俳人が出現した。土方歳三の祖父である。石巴は江戸の夏目成美、八王子の松原庵星布と、交流を重ね、独自の俳風を築いていった。
 太田南畝が星布尼と句会の宴を張ったとき、止宿していたのは日野の佐藤家であるが、石巴がここを訪ねなかったとは考えにくい。おそらく夜を徹して俳句を、そして世相を語り合ったことだろう。歳三の兄・為次郎は長兄であったが盲目のため、石田家を継がず、閑山亭石翠を名乗って風雅の道を歩んだ。その石翠が入り浸っていたのも佐藤家である。やがて歳三もこの兄に従った。
 つまりは、こうなるともう、継承関係を解きほぐしてみても意味はない。彦五郎とて、石翠の俳句や狂歌、浄瑠璃に学んだこともあろう。同じく佐藤家に入り浸っていた「あづま屋」こと中村太吉郎が江戸に出て、高名な狂歌師・絵馬屋三世となったのも、南畝や石翠の存在と無縁ではあるまい。絵馬屋は日野に戻ると佐藤家の長屋門の一角で、後には日野の駅前で小料理屋を営みつつ、狂歌や俳諧の道を極め、玉川居祐翁を名乗った。
 この一帯の気風が文芸にとどまらなかったことはご想像のとおりである。近藤勇の後継と目されていた彦五郎をはじめ、歳三、大作(粕谷良循)、太吉郎はみな天然理心流の優れた剣士であった。そして、本田と粕谷は佐倉順天堂の名医・佐藤泰然らと結びながら地域医療に全霊を捧げた開明医家である。
 彼らが開国・幕末・維新をどのような思いで迎えたのか。その一端はさまざまな形で明らかになっているし、その多くは永遠の謎である。だが、多摩の表現者を語る場合、米庵流の三代目・本田定年(日本三筆の一人・退庵)が、府中の渡辺寿彦と始めた『武蔵野叢誌』に触れないわけにはいかないだろう。
『叢誌』は彦五郎の長子・俊宣(歳三の甥)をはじめ、多くの多摩の青年たちに表現の場を提供した。俳句では評者・選者を彦五郎が勤めている。ところが1884年、俊宣が寄せた戯れ文が不敬であるとされ、筆者と発行人(寿彦)が逮捕され『叢誌』は発禁となった。この不敬罪の裁判では絵馬屋三世が俊宣の弁護に立っている。
 この一帯に立ち降りた文芸の気風、時代の気運とはなんだったのか。私はその匂いに触れるためにしばしば石田道の多摩河原を訪れた。リュウノウ菊の花陰、イタドリの群生、草むらから立ち上がったエゴノキやヌルデ・・・・・・・・溢れんばかりの植物や鳥たち。ところがいま、保存と称して、一帯は自然公園に化けてしまった。
 私に期待されているのは俳人・彦五郎の足跡であるらしい。が、すでに紙面が尽きてしまった。それについてはいずれ機会を持ちたいと思う。そこで今日のところは本シリーズ29で遠山陽子氏が随想を寄せている「豊玉発句集」から一句を拾って〆にしたい。

 公用に  出て行みちや  春の月


 ここでいう公用とは、名主・彦五郎に命じられた所用である。考えられるのは北の柴崎村か南の連光寺、はたまた小野路。夕景であるのにのんびりしているところから、小野路の橋本家に泊まるつもりなのだろう。とすると「公用」を名目に、酒を酌み交わそうとするうきうきした魂胆もうかがえる。
 してみると、この道は石田道ではなく、日野から南へとのびる川崎道、浅川河原の風景だろう(ちなみに「年礼に出て行そやとんひたこ」の句は石田道でのものだ)。「月は東に、日は西に」というよりも、もう少し昏い、パープルのような河原を思う。このあたりにはまだ、かろうじて多摩の自然が残っている。時代に吹いた風の一端が感じられるやも知れない。歳三の生家もすぐ近くだ。









2015.12.20 桑都日記
日野宿本陣文書検討会では石田散薬販売先「村順帳」調査と併せ
資料に登場する石田散薬についても手掛かりがないか調査を進めている。

①調布日記

土方家は石田村名主をつとめたこともあり江戸時代、幕府の支配勘定役で、大田直次郎という有名な狂歌師がおり、号を南畝 蜀山人と称していました。

「調布日記」に土方家について、次のように記しています。

文化6年(1809)2月22日の調布日記 国立公文書館内閣文庫蔵

陰晴さざまらず、余寒はなはだし。巳の時前にやどりを出て、本宿村、四谷村の用水を見て、上谷保村の堤を見、舟にてむかうのきしにわたり、石田村の農夫隼太(土方氏)がもとにて昼の喰をくふ。あるじは医をよくして、骨接の薬をひさぐ。

手習ふ子供多くみえたり。ふすまにかける山水は吉田蘭光の画にして、三月亭といへる額は源師道の書なり。
水車ある所を過て、上落川村の里正与五右衛門が家にいこふ。ここに古文書あり。・・・以下省略




②桑都日記


桑都日記は八王子千人同心 組頭 塩野適斎がまとめた千人同心及び江戸時代の歴史を記録したものです。

文政期から天保期にかけて編まれた多摩地方八王子地区の地誌書で千人同心組頭・塩野適斎が編纂した。

多年の調査と膨大な資料をもとに、1582年天正10年(1582)から文政7年(1824)までの243年間を、
八王子千人同心と地域の様々な事項について、編年式に解説を加えたものである。

文政10年(1827)に正編15巻23冊、図解1巻2冊が完成、天保5年(1834)に続編24巻24冊、図解1巻1冊を脱稿し、正続合わせて江戸幕府に献上された。八王子の歴史研究の第一級資料となっている。


続篇 八 に接骨薬として石田散薬が紹介されています。

接骨薬 石田村 石田隼人所製也 累世家傳之妙薬也 


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③玉利軒日記 萬記録と記録帳に二冊 宝暦6年(1756)から明治7年(1874)まで118年にわたる公私文書

武蔵国多西郡小山村 造り酒屋玉利軒・島崎又左衛門家に残された古文書

記録帳 「一きづ薬 川そば(牛ひたい草とも言)黒やきにして付てよし言 石田薬に沢山入る草也」

近くには近藤勇の義父 島崎周助の実家である造り酒屋「中の倉」も近くにある。