2015.12.21 石田道
土方歳三も遊んだ「浅川」の流れ

http://youtu.be/P5WeD8hkryw

幕末維新の風・石田道  日野在住作家 佐藤文明さんの記録です。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bumsat/B-hp.Tama.htm#石田道


 国立に石田道と呼ばれる古道がある。甲州街道沿いの村・青柳の北に位置する小さな集落・石田から、真っ直ぐ多摩川に向かって南下する道である。この道はかつて、そのまま多摩川を渡り、日野の石田村に通じていた。多摩川には、水の少ない冬場に限り、板切れをつないだ木橋が懸かったのである。国立の石田は日野の分かれであり、水没した石田村の避難先である。つまり、両石田の土方家は一族縁者であり、冬枯れの河原に人の通いは少なくなかった。
 石田村の風雲児・土方歳三(新撰組副長)もその一人で、この橋をおおいに利用したはずである。というのも、年始の挨拶といった親戚づきあいだけではなく、幼少のころからすぐ上の兄・大作とともに谷保村の本田家に書の手習いに通った可能性が高いからだ。歳三のしなやかだが、背すじがスッと通ったような品のある書体は、本田家に伝わる米庵流のものである。
 ものの本によれば、歳三が残した「豊玉発句集」と、その書体は、姉の嫁ぎ先である日野宿名主・佐藤彦五郎の伝授によるものだろう、とする。たしかに彦五郎は当時、多摩を代表する俳人の一人であり、米庵流の筆を能くした。歳三に伝授したのは天然理心流の剣術ばかりではなかったろう。素朴で、てらいのない歳三の発句は、彦五郎の教授法にかなうものであったとおもうのである。
 しかし、彦五郎の筆も本田家直伝のもの。当然、歳三にも直伝を奨めたはずである。このことは、佐藤家とはあまり出入りのなかった大作が、後に米庵流の能筆家として名を挙げたことでも明らかだ。が、私はここで文芸の伝授・継承関係を解きほぐそうとする気はない。それよりもむしろ、幕末維新のある時代に、石田、谷保、日野の一帯に、文芸の気風が立ちこめていたことを伝えたい。
 始まりがいつであるのか明らかではない。が、それは少なくとも彦五郎や歳三よりも三代前にさかのぼる。谷保の本田家が医業を開業し、米庵流を始め、日野の佐藤家が天然理心流への援助を開始した。おなじころ、石田に三月亭石巴なる俳人が出現した。土方歳三の祖父である。石巴は江戸の夏目成美、八王子の松原庵星布と、交流を重ね、独自の俳風を築いていった。
 太田南畝が星布尼と句会の宴を張ったとき、止宿していたのは日野の佐藤家であるが、石巴がここを訪ねなかったとは考えにくい。おそらく夜を徹して俳句を、そして世相を語り合ったことだろう。歳三の兄・為次郎は長兄であったが盲目のため、石田家を継がず、閑山亭石翠を名乗って風雅の道を歩んだ。その石翠が入り浸っていたのも佐藤家である。やがて歳三もこの兄に従った。
 つまりは、こうなるともう、継承関係を解きほぐしてみても意味はない。彦五郎とて、石翠の俳句や狂歌、浄瑠璃に学んだこともあろう。同じく佐藤家に入り浸っていた「あづま屋」こと中村太吉郎が江戸に出て、高名な狂歌師・絵馬屋三世となったのも、南畝や石翠の存在と無縁ではあるまい。絵馬屋は日野に戻ると佐藤家の長屋門の一角で、後には日野の駅前で小料理屋を営みつつ、狂歌や俳諧の道を極め、玉川居祐翁を名乗った。
 この一帯の気風が文芸にとどまらなかったことはご想像のとおりである。近藤勇の後継と目されていた彦五郎をはじめ、歳三、大作(粕谷良循)、太吉郎はみな天然理心流の優れた剣士であった。そして、本田と粕谷は佐倉順天堂の名医・佐藤泰然らと結びながら地域医療に全霊を捧げた開明医家である。
 彼らが開国・幕末・維新をどのような思いで迎えたのか。その一端はさまざまな形で明らかになっているし、その多くは永遠の謎である。だが、多摩の表現者を語る場合、米庵流の三代目・本田定年(日本三筆の一人・退庵)が、府中の渡辺寿彦と始めた『武蔵野叢誌』に触れないわけにはいかないだろう。
『叢誌』は彦五郎の長子・俊宣(歳三の甥)をはじめ、多くの多摩の青年たちに表現の場を提供した。俳句では評者・選者を彦五郎が勤めている。ところが1884年、俊宣が寄せた戯れ文が不敬であるとされ、筆者と発行人(寿彦)が逮捕され『叢誌』は発禁となった。この不敬罪の裁判では絵馬屋三世が俊宣の弁護に立っている。
 この一帯に立ち降りた文芸の気風、時代の気運とはなんだったのか。私はその匂いに触れるためにしばしば石田道の多摩河原を訪れた。リュウノウ菊の花陰、イタドリの群生、草むらから立ち上がったエゴノキやヌルデ・・・・・・・・溢れんばかりの植物や鳥たち。ところがいま、保存と称して、一帯は自然公園に化けてしまった。
 私に期待されているのは俳人・彦五郎の足跡であるらしい。が、すでに紙面が尽きてしまった。それについてはいずれ機会を持ちたいと思う。そこで今日のところは本シリーズ29で遠山陽子氏が随想を寄せている「豊玉発句集」から一句を拾って〆にしたい。

 公用に  出て行みちや  春の月


 ここでいう公用とは、名主・彦五郎に命じられた所用である。考えられるのは北の柴崎村か南の連光寺、はたまた小野路。夕景であるのにのんびりしているところから、小野路の橋本家に泊まるつもりなのだろう。とすると「公用」を名目に、酒を酌み交わそうとするうきうきした魂胆もうかがえる。
 してみると、この道は石田道ではなく、日野から南へとのびる川崎道、浅川河原の風景だろう(ちなみに「年礼に出て行そやとんひたこ」の句は石田道でのものだ)。「月は東に、日は西に」というよりも、もう少し昏い、パープルのような河原を思う。このあたりにはまだ、かろうじて多摩の自然が残っている。時代に吹いた風の一端が感じられるやも知れない。歳三の生家もすぐ近くだ。









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